牙の行方 とはいずこ

この話題を最初は取り上げるつもりはなかったのですが、安藤裕子ねえやんの心のつぶやきが、思いのほかネットを介して世間でセンセーショナルな話題となってしまったようなので、このまま触れないわけにもいかないかな、ということで。

波紋

7/17に「牙の行方」として安藤裕子の公式サイトにある安藤裕子の心のつぶやき場所、「My Room (MY BED ROOM)」にねえやんによって書かれた文章に私も少々驚き、共感と戸惑いを覚えました。

たしかに、ねえやんの言うように、現在、「今世紀の音楽」というものは瀕死の状態にあるのかもしれない。
ただ、「今世紀の音楽」のあり方を、ねえやんは、「レコードやCDというフォーマットの商品を心の通じる相手に売り渡すこと」であるとしているが、果たしてそうだろうか? それは前世紀、つまり20世紀のことではないだろうか。

確かにねえやんがデビューした2003年当時は、表側にはあまり表れていなかったとしても、裏側ではその崩壊は確実に進んでいた。 見方を変えれば、その崩壊とともに安藤裕子というアーティストは音楽の世界で歩みを進めてきたようなものだ。その証に、デビューミニアルバムからコピーコントロールCD(CCCD)によるリリースであった。(それも現在ではまったく意味を成していないが…)
それだから今更という感が否めない。今世紀、時代は確実に変化したのである。

むしろ、「安藤裕子」というアーティストは、CDという媒体にこだわりつづけることでもって意識的にポーズをとっているのでは?とさえ思っていた。 だから、『問うてる』が配信限定リリースとなったときには、私はとても違和感を覚えたのだった。

J-POPを聴く世代は主に10代~20代の若者である。
「iTunes Store」 やら、「着うた」のようなPCや携帯端末に音楽をダウンロードして聴くスタイルは、ネットやケータイ依存の現代の若者を中心に当然のごとく定着し、抵抗感はほとんどといっていいほどなかった。

「購入や管理が便利になった」、「曲単位で買えるから安く済ませることができた」といったサービス内容であれば、消費者とは受益者でなければならないことからいえば当然の流れであって、なにも問題はない。仮にそれがアーティストやレーベル側の減収を招いたとしてもだ。流通形態に不備や不満があるのであれば、単価を上げたり、販売契約の改善を試みる働きかけをするべきだろう。それでも納得しなければ、極論「配信しなければいい」 ただそれだけだろう。
アーティストがこの状況を嘆くのはわかる。しかし、嘆かせてしまったのは、業界の先見性の無さと甘さと怠慢である。結果としてアーティストと自らを守れなかったのだ。

ねえやんが野菜に例えて言うように、現代の消費者は、同じ商品であれば、多少質が落ちるものであっても、より安いものや「タダ」のものを好む。ちょうどスーパーの閉店時間間際のお惣菜のように。
長年の不景気は、物心ついた時から日本の斜陽しか知らない現代の若者の消費意欲を奪ってしまった。いや、はじめからほとんど無いのかもしれない。
そして、そんな人たちにぴったり寄り添うようにネット社会が瀕死の若者文化を支えてきたような気さえする。

現代の若者は、もちろん決してモノが欲しくないわけではない。「必要なもの以外にお金を使う」という消費行動の意欲がないのだ。だから現代の若者の必要最低限の衣食住として、「ファッション」にはやりくりしてお金を投じるし、携帯電話代やネット代には御布施のようにお金を払う。
生活優先順位の中で、個人的な嗜好文化としての「音楽」は順位の下層に追いやられてしまったのだ。それだけギリギリの深刻な状況なのである。 だから、「タダで済ませられる」ものなら済ませてしまうのは仕方ないだろう。

結局、社会の善悪はすべて「法」が決めるのである。
現代人のモラルを嘆く気持ちは良くわかるが、時代時代のモラルを作ってきた底にはなんらかの「法」が存在していたはずだ。
ここでいう「法」というのは、法律だけではなく、社会のあらゆるところにあるべき「ルール」のことである。「法」は社会基盤であり、時代に合わせて作り上げるものである。

「タダで済んだ」 ということは、現段階の法整備の不備や、取り締まりの度合いが不十分なことから、十分予測出来たはずだ。
だから、「タダで済んだ」 ということも、現代の若者にとっては、もしかすると「勝ち誇れること」なのかもしれないのだ。

YouTube や ニコニコ動画 のように、比較的厳しく監視されているはずの媒体でも、結果としてはかなり「ザル」の状況であるのだから、そこからさらに網目の大きな媒体に際限なく放出されていっているのが、現代の「ゆるいデジタル時代」である。

こんな状況をアーティストが嘆くのは当然だ。 しかし、アーティストには嘆いているよりも、ただひたすら気力あるかぎり「良い作品」を作り続けて欲しいと思う。
だから、アーティストを嘆かせないような仕組み作りに、日本だけではなく、世界が本腰をあげて取り組むべきなのだ。

良い音楽作品を作り続けるためには当然お金が必要だ。
音楽だけではなく、すべてのものには先行投資が必要だ。畑に種を撒き、水を撒き、大切に育てていかなければおいしい野菜はできない。しかし、先行投資として畑や種を買うことが出来なければ、いくら気力があってもおいしい野菜は作れないのだ。 だから先行投資の回収資金である、野菜への対価が必要なのである。 おいしい野菜を作り続けていくために対価を回収し続ける必要があるのだ。

でも、今なによりも必要な先行投資先は、現代に生きる子供や若者そのものではないだろうか。将来への夢や希望をもってもらえるように、しっかりと育むことだろうと私は思う。
だからそのためにも、そこには良質な音楽が必要なのだ。単なる個人的な嗜好文化という枠に留まらず、あるときには人生の方向性さえ変えてしまえるぐらいの力をもった、「人を育むための芸術文化」として。

私はこれまで、生活がギリギリの時でも、可能な限り安藤裕子のライブに行き、全ての安藤裕子のアルバムとシングルを買い揃えた。これまで投じたお金は計算したことがあるわけじゃないから分からないけれど、少なくとも安藤裕子が1週間はそれでご飯が普通に食べられたぐらいはあるんじゃないだろうか。仮に自分自身が十分に食べられなかったとしても、安藤裕子の音楽に本当に価値を見出したからこそ出来ることである。時間もお金もかけるだけの価値があると判断した私たちファンこそ、ある意味、現代のパトロンとしての意識をもっと高くもつべきなのかもしれない。そういうところから変えていくべきではないだろうか。(私の例は少々極端だが…)

 「タダで済ませるわけにはいかない、これは自分にとって三度の飯以上の価値のある音楽なんだ」と思わせる作品作りを、果たして今の日本の音楽業界はしているのだろうか?

現在のJ-POP文化の廃れた状況は、いったいどこから始まったんだろう。
きっと、そこにも、ここにも、あらゆるところに、ねえやんの言う「牙の行方」はあるんじゃないだろうか。

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