JAPANESE POP アルバム印象
発売日一日前に、安藤裕子最新アルバム『JAPANESE POP』を入手。
そしていつものごとく、アルバムや曲の感想を書くのが苦手な私。
一曲ずつの感想は、後日まとめるとして、今回は簡単にアルバム全体の印象を。
“JAPANESE POP” というタイトルが決まってから、私はこれまでさまざまなイメージを想像していた。
しかし、実際、タイトルにある”ポピュラー”の意味合いから想起されるような誰にも馴染みやすい曲調ばかりを想像していると、ちょっと首をかしげてしまうかもしれない。 また、ジャケット写真のようなシンプルな新生安藤裕子の力強さを期待しても、それもきっと肩すかしをくらうであろう。
アルバム全体での印象は、一言でいうと「静寂」である。
『chronicle.』以降の安藤裕子の手さぐりの音を感じさせる。 たしかに安藤裕子は生まれ変わろうとしているのが分かる。 そう、「変わろうとしている」現在進行形の羽化前の繊細なサナギのよう。 確実に次のステージに上がろうとしているときの「静寂」である。
もしかすると、休日の午後にお茶でもしながら物思いにふけり、なにげなく聴いていたら突然に涙に襲われるかもしれない、そんな力を静かに湛えている。
けっしてアクの強さはないし、聴きやすい良質な曲ばかりなのだが、たとえばファーストアルバムのような、アルバム単位の完成度を求めると、このアルバムは見事に裏切る。 このアルバムのゆるいごちゃ混ぜ感こそ、グラデーションがかった”JAPANESE POP”であり、現在の安藤裕子の決めきれない迷いを示している気がする。 これまでの包まれていたような安藤裕子の世界を捨て、大人の迷いの一人旅に出発してしまったような… そんな寂しさも覚える。
また、純粋に能天気に楽しくなるような曲がなかったのは少々残念。 大半の曲に同じテンポで訪れる寂寥感のようなものを感じてしまう。 それに、少し高いところから自身を見下ろしているような、曲と歌い手の思いの間になにか距離があるように感じられるのは気のせいだろうか。 以前の安藤裕子は内なる悲しみ、虚無感さえも、上質なポップスに昇華させることの出来る類なき表現者であり、聴くものを捉えて離さない力を持っていた。 どうしても表現したいんだという思いの強さだったのかもしれない。 それを若さだとするなら、安藤裕子は少々ものわかりの良い大人になりすぎたのかもしれないが、また、それはそれで人生の機微を唄う「表現者安藤裕子」の成長と解釈するべきかもしれない。 今回、喪失感という言葉をよく口にし、また、曲にまとわりついている寂寥感の理由もここにあるのかもしれない。
アルバム最後の曲『歩く』は、本来は亡くなった友人の母親を思い作られた曲だが、もうひとつ、安藤裕子というアーティスト自身の喪失感とともに、それでも、もがきながらも「ポップスという名の道を歩き続けるんだ」という未来への決意表明のようにも思えてくる。