ROCKIN’ON JAPAN 2010年10月号
ROCKIN’ON JAPAN (ロッキング・オン・ジャパン) 2010年10月号 (VOL.372) に掲載の、安藤裕子へのインタビュー記事を部分抜粋しつつ、私なりの解釈をつけ加えてご紹介します。
「終わりと始まり」が強調されたベストアルバム『THE BEST』の次にリリースされたオリジナルアルバム『JAPANESE POP』が、安藤裕子のあらたなステージとしての「世界」と「自我」の意識的な提示であったと解釈する内容だった。
手首のタトゥーも鮮やかに、どきりとするような大人の艶めかしさで挑発するかのような安藤裕子。 この写真に象徴されるように、ある意味攻撃的に「変化」を強調し、聴く側は戸惑うほどに「変化」を感じ取ったアルバムとなった『JAPANESE POP』。
これまでの安藤裕子の音楽は、ある種の「密室」の中で、信頼のおける限られたスタッフだけで、妥協のない濃密なコミュニケーションの中で生まれてきた。 その作品は、ピュアで幼くもあるが、ある時は自虐的、ある時は攻撃的、情念的でもある。 恒久的な愛や幸せを求めつつも、頑なな心のブレーキによって素直になれないでいる。 それらはアーティスト安藤裕子の持ち味とさえなっていた。
ある意味、ひたすら個としての「安藤裕子」そのものを作品に反映させることに懸命であったといえるのかもしれない。 結果として、時流の「ポップ」ミュージックとは一線を画す、オリジナリティを獲得出来たのだった。 それは、個と個が寄り添うような、湿度が高くとも味わい深く純真な楽曲たちだった。
しかし、『唄い前夜』が生みだされる頃から、自身の変化を敏感に感じ取っていたという安藤裕子。
今回のアルバム『JAPANESE POP』には、これまでに比べ、どこかカラッとしていて、かわいい楽曲たちが踊るような眩しい曲であったり、大人の恋愛を情念ではなく俯瞰でみつめるようなしっとりとした楽曲が織り込まれていたり、また、明るいテンポで人間の根源的なテーマを「自問」する『問うてる』や、他者の「死」をベースに「生」の肯定を高らかに歌い上げる『歩く』など、力強く開放的でさえあった。
けれども私は、どこかこれまでとは違う安藤裕子という個との距離感を感じていた。 寄り添えきれないという一抹の寂しさを覚えたというのが正直な感想だった。
「ほら、私を見てよ」と誘われはするけど、いつものように近づこうとしたら、どこかよそよそしく振る舞われてしまったような…
以下のインタビュー記事に、私が感じた距離感に対する一つの答えがあったので、その一部をご紹介します。
● これまでの安藤さんのキャリアを振り返ってみると、個人的に安藤裕子というアーティストは、ある種のダンスを踊り続けてきたんじゃないかと僕は思っていて。
「うん」
● で、そのダンスの相手っていうのは、音楽そのものであったり、リスナーであったりいろんな要素を孕んでいると思うんですけど、この『JAPANESE POP』では、その踊る相手との距離感や視点が圧倒的に変わったと思うんです。
「ダンスっていうので今立ち止まって聞いちゃったけど(笑)、でもなんか、この『JAPANESE POP』ってアルバムにおいては、自分がすごくリスナーを担ってたってところがある。 それまでは作り手側で『歌いたいものを歌う』ってところに終始してたけど、このアルバムに関して言うなら、作る過程もそうだし、でき上がったものに自分が随分と助けてもらったっていうのがあって、それはリスナーとしての立場を自分がすごく体感しながらやってたと思うの。 私はそれまでどっか音楽を悲観的に捉えていて、なんていうか、衣食住に関係ないでしょ? 音楽って。 自分も『普段の生活のなかでそこまで音楽聴かないし—』とか、ちょっと否定的に捉えてたんだよね。 だけど、そうやって疑ってた音楽に自分が落ちた時にいっぱい助けてもらった。 『chronicle.』後の2年間ってそういう時間だったのね。 そしたら考え方がすごく変わったんですよね、ライヴもそうだし。 みんな空洞と戦ってる。 それぞれの生活のなかで、人間の文化が進めば進むほど空洞はデッカくデッカくなってって、だからこそそれを埋めるためのエンターテインメントも必要だってこともすごく理解した。 だから今回は、ほんとに自分が落ち込んでた時に、浸りたいような悲しい曲もあるけど、反面バカみたいに騒ぎたい気持ちもあるし。 例えば”マミーオーケストラ” って『クリーミーマミ』になりたくて作ってるんだけど、それを本気で歌ったりするのを聴いてるだけで、バカバカしいほどドリーミーな気持ちになれたりとか。 そうやって自分の日常を埋める作業をすごくいろんな意味でしてくれたアルバムだった。 だから、確かに今までとは立ち位置が違う部分があったと思う。 もちろんこの『JAPANESE POP』を嫌いな人もいるだろうし、興味がない人もいっぱいいるだろうけど、共感する人がいるんならぜひ自慢したいと思う。」
- 中略 -
● このアルバムの音は、決して今のJ-POPの主流とは違うところにあると思うんです。 つまりこのタイトルに、どこかクリティカルな要素が含まれていると誤解されても、それはそれで引き受けようってことなんですか?
「誤解でもいいよ。 なんかね、引っ掛かって欲しいとも思ってるんだよ、やっぱり。 警鐘でもありたいと思ってるわけ。 『どう思われてもいいから、まず引っ掛かって欲しい』っていうのもあるの。 だから、今までと自分の生き方を変えたんだよね、『chronicle.』以降。 『変わんなきゃいけない』と思うとともに『変わらないと、このまま埋もれて死ぬ』と思ったから。」
- 中略 -
● あのー、これまで個人的に安藤さんの曲の中で強烈に惹かれてきたものって、常に”死”を感じさせる曲だったんですけど、今回のアルバムでは”生”の肯定性を感じさせる曲が圧倒的に素晴らしいんですよ。 それは、さっき言っていた最前線に立って戦うっていうモードがこの作品に出てるからなんだなあって感じがしますね。
「そうだね、気持ちはそう思ってる。 自分自身は弱いし、ちっぽけだけど、でも周りの人間を信じてるし、周りの人間を守ろうという思いもあるから」
● 従来型の安藤裕子のパブリックイメージを持ったリスナーは、この変化をどう捉えると思いますかね?
「私の在り方が変わってきてると思う。 変えてるから、意識を持って。 だからもしかしたら『変わったね』って言う人は現れるかもしれない。 でも音楽的には私は何ら変わってないとは思う。 深くなってるし、広がってってもいるけどね。 でもやってる音楽っていうのは、常に自分の生活の脇にあるものをやってってるつもりだし、きっとこれからもそうだと思う。」
これらを読んで、ようやく理解出来たような気がしました。 私が感じた距離感。 安藤裕子自身の音楽は技術的に進化はしても、根本は変わっていない。 これまでと同様に生活の脇にある日常を歌っている。 変わったのは、安藤裕子という個をとりまく環境であり、日常そのものが変わったのだ。 それに応じてモノの見方、捉え方も変わるだろう。 安藤裕子というアーティストの在り方が、自身の音楽とともにステージを駆け上がったのだ。
相も変わらず、成長しないままでいる私自身が、単に置いてきぼりをくっただけなんだ。
アーティストが進化していくのに、リスナーが進化していない。 距離感を感じるのは当然の結果だ。
だから、同じリスナーでも、時とともにしっかりと成長出来ている人、またはそのレベルにいる人は、安藤裕子の変化する音楽に寄り添い続けているのだろう。
安藤裕子は長く変化することを怖れていたけれど、とっくに乗り越えて、ずっと先を行ってしまっていたんだ。
同じ歩調で共に歩いていたと思っていたら、いつの間にかもうずっと先を行ってしまっていた安藤裕子。
私は今から追いかける。
3ページほどのインタビュー記事ですが、とても読み応えのある内容でした。 ここでは一部しか紹介出来ませんでしたが、ぜひ全文を読むことをおすすめします。 上にある画像以外にも美しい安藤裕子ねえやんの写真も拝めます。
[おまけ]
- 安藤裕子のプライベートについての考え方について -
「私は自分の生活に支障が出そうなこととか、プライベートだったり主義思想はなるべく話さないで逸らしてきたし、はぐらかして生きてきた。 だってヤだもん。 『構わないでよ、私のプライベートぉ』みたいなのあるじゃん(笑)? だけど、それじゃもう聴いてもらえないかもしれない。 だったら聴いてもらうためにいくらでも話し合おうよって思う。 知って欲しいしね、答えを」