3. 本/雑誌

せんだいタウン情報 S-style 2010-11

震災のちょっと前に発売されていた仙台市のタウン情報誌『S-style』という雑誌に載っていた、ちっちゃな安藤裕子情報のご紹介。 『JAPANESE POP』リリース時期の記事です。

S-style 安藤裕子

「昔、”ポップスは人々が暮らしの中で見る夢なんだ”って聞いて、自分の音楽もそうありたいなって。 映画みたいにドラマチックなことってそんなにないですよね。 でも、そこに壮大な音楽が流れてたら瞬時で景色が変わる。 世にあふれる45秒や15秒でのものじゃなく、アルバムとして存在する音楽の世界で、日常に優しい色彩を届けたい」。

(11/12にある仙台ライブを控えて)
「ライブはお客さんの熱量で変わるので、自分も出演する心意気で遊びに来てください。 気抜いてるとステージに引っ張り上げるぞって。 あ、ホントに引っ張り上げたことあるんですよ (笑)」。

う~ん、引っ張り上げられたいような、でもむちゃくちゃ困るような…(笑)

夢のある食べ物として、なぜかタンシチューをあげているねえやん。
「絵本に出てくるお菓子や料理とか、自分の中で夢のある食べ物があって。 昔、漫画で見たのがすごくおいしそうだったので、それ以来ケーキは絶対イチゴタルト。 タンシチューにも夢を持ってるんです。 いま私、一番うれしそうにしゃべってますね(笑)」。

おお、シングル『輝かしき日々』のジャケット写真で、ねえやんがかぶりついている、キル フェ ボンのいちごたっぷりのフルーツタルトは、単に絵的におもしろいから、というような理由かと思っていたら、実は元々ねえやんの好物であったという。 納得!

タンシチューっていうのは、仙台ということで多少はリップサービスなのかもしれませんが、大の「肉好き」であることは間違いないですね。

「MARQUEE (マーキー) Vol.90」 インタビュー記事

「MARQUEE (マーキー) Vol.90」において、アルバム『勘違い』についての安藤裕子へのインタビューがありますので、安藤裕子の気になる内容の言葉だけを、ほんの一部、掻い摘んでご紹介。

~アルバムが出来るまで~

「私はいつも、最初にアルバムの方向性とかは考えず、曲ができていく中で今回はこういうアルバムだって分かるんですけど…」

「自分が曲を作るようになった二十歳くらいから2010年頃までの時間って、デビューはしているけど、あまりそこは境目になっていなくて。 曲を作る、歌うって作業をただただ続けていただけって感覚だったんで。」

「2010年くらいに自分の体のバランスが崩れてきたんです。 体調が悪い時間が多くて、曲はできるけど、歌う自分が見ない時間だったんです。 だから、夏と冬に1~2カ月くらい休ませてもらって外国に高飛びして(笑)」

「2011年になって、海外から戻ってきたけど動ける気がしなくて。 そうするうちに震災が起きて、今度は自分に子どもがいることが分かったんです。 同時に、私を育ててくれたおばあちゃんが亡くなってしまって。 あと、震災で家族を亡くした多くの人を毎日映像で見たりで、素直に子供ができたことが喜べない感じはありましたね。」

「ほんとにいっぱいいっぱいの日々だった。 アコースティックツアーもどうにかやり遂げたかったんだけど、いろんなストレスが溜まったのか倒れてしまって。 倒れたから、妊娠の状態もよくなくなって妊娠後期は寝たきりになってしまったんです。 でもちょこちょこレコーディングは進めて、よろよろしながら歌ってたんです。 あと2曲を残して出産に入ったんです。 ただ出産も大変で、そのおかげで、2ヶ月は寝たきりになってしまったんです。」

「ほんと、ひとときも緩やかな時間の無い中で作られたアルバムなんですよね」

~アルバムタイトル『勘違い』について~

「最初、タイトルは『永すぎた日向で』になると思ってたんです。 なぜかというと、それが、このメチャクチャな私の時代のコアな曲だと思ったから。 でもそれをタイトルにしてリード曲にしたら、このまま安藤裕子の音楽が幕を閉じてさよならしなきゃいけない気がして。 で、“鬼”とかを録り終えて、もっと開けたものがいいなと思えて。 『勘違い』が自分を象徴しているような言葉だし変えようと」

~『エルロイ』について~

「声を荒げたかったんじゃないですかね。 やっぱり溜まっていたんじゃないかな。 私、人前であまり声を荒げたりしないタイプなので、ヘラヘラしてて(笑)。 私生活で怒ったり泣いたりもしないし、溜めちゃうんだと思います。 音楽も優等生的なものを長くやってたし、体が塞いでく中で発散したかったんだと思います。」

~曲作りについて~

「“すずむし”は、実は二十歳くらいからあった曲で、ずっとスタッフに却下されてたんです(笑)。」

「私、曲作るときって歌詞を紙とかに書かないんですよ、歌として歌詞があるから書かなくて」

メモは? 
「基本脳みそで保存してます(笑)。 忘れちゃうものはその程度のものだと思って、覚えてるものを曲にしていくんです。 で、この曲はこれだけ長く覚えてるから、きっと何か縁があるんだろうなって。 ただ、頭にあるから歌詞を客観視しないんです。」

~“地平線まで”について~

「私、人が亡くなったりした時に、フレンチホルンの音が(頭に)聴こえるんです。 この曲は、震災があって家族を亡くした男の人が、ショックや悲しさを通り越して、無表情で語ってる姿をテレビで見て、それがすごく苦しかったんです。 この人にもひとりでポロポロ泣ける時間ができればいいのにって。 これはそういうためにある曲だと思います。」

ジェイヌード (j-nude) Vol.131

2012/3/1 フリーペーパー 『ジェイヌード Vol.131』 のインタビュー記事において、安藤裕子の「人生の分岐点」からの変化について語られているので、少し掻い摘んでご紹介。

ジェイヌード (j-nude) Vol.131

前作『JAPANESE POP』の後、心身ともにバランスを崩して休暇をとり、それが明けてすぐに、東日本大震災、自身の妊娠の発覚、そして、育ての親だった大切な祖母の死を連続して経験し、音楽を届けたくても思うようにできない、そんな生と死をみつめた「人生の分岐点」から、アルバム『勘違い』の楽曲を生み出した。

のちに、チャリティCDとしてリリースされた『地平線まで』は、被災地の方々の大変な状況を少しでもわかちあいたいと、大切な人との別れの想いを曲に込めたという。

デビューから、安藤裕子の人生の分岐点は何度かあったが、そのたびに自分の信じる道を選んできた。
これまではゼロから100まで自分の思い通りにできないとイヤだったが、人に任せるということをなんとなく覚えたのは30歳を超えてからだという。

一方で、母になることがずっと夢だったという安藤裕子。
「子どもは明日へと私を強引に導いてくれて、自分にばかり向き合ってきた時間を奪ってくれているありがたい存在。 『お誕生日の夜に』や『鬼』は、子育てをしながらふっと自分に戻った時間に自然と出てきた曲です。 かつては1曲1曲への思い入れが強すぎたけれど、今は目の前の曲をがんばって素直に歌っているので、自分とちょっと距離がある。 純粋に歌を歌いたくてただ楽しんで作っていた初期のころの感覚に近いですね。 34歳は人として中途半端な年齢だけれど、今の自分ができるかぎりのことを精いっぱいやっていきたい」

これまで、つくる曲の1曲1曲が我が子のような存在だったのが、本当の我が子が出来たという大きな人生の分岐点にいて、自らの音楽に対して客観的な視点がもてるようになったということだろうか。

自身から生まれ出た音楽でありながら、距離をおいて相対する。 安藤裕子は常に新しい分かれ道を選び進んでいく。 私はそれをいつも新鮮な気持ちで見届けていけることを、今あらためて幸せに思う。

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