3. 本/雑誌

MUSIC MAGAZINE 2010年9月号

先日投稿したCDジャーナルと同時期の、MUSIC MAGAZINE 2010年9月号の安藤裕子インタビュー記事を一部抜粋形式でお伝えします。

「CD屋さんに行ってみたら、はっぴいえんどの『風街ろまん』があって。 さすがに細野晴臣くらい知ってるから、大丈夫だろうと思って買ったんですよ。 で、1曲目をかけたとたんに”自分がやりたいことはこれだ!”と思って。 私がやりたいことは言葉の音っていうか、そういう交わりなんだよっていうのがすごく自分の中にピンときて」
(歌を作りだした最初の頃のお話)

「ようやく人並みに (音楽的な) 会話がちゃんとわかるようになったんですけど、それがネガティヴな要素にはなってないね。 以前は、”もうちょっと音楽を聴いてくれ”ってすごく言われた。 今は逆に止められますね。 余計なものを聴くな、余計なものを見るなっていう態勢に入ってます。 パソコンはインターネットにつないでないし」
(音楽のキャリアについて)

「ギターしか持ってないですね。 あと三線。 曲は基本アカペラで作ってる。 だから声なんです。 (取材用のICレコーダーを指差して) こういうので録って — (アレンジャーの)横で歌うこともあるけど、だいたい歌ったやつを渡して。 山本くんともそうだし、今回新しく出会ったベニーとか弾くんも同じような感じで」
(楽器が自宅にあるのかという質問の答え)

「『JAPANESE POP』ってタイトルも、 “牙の行方” も、 喧嘩を売ってると取っている人もいるかもしれない。 前向きに生きるっていうのは日本の社会では潰されるってことだから、余計なことはしたくはなかったけど、でも現実は話をしていかないともうダメだろって思うところにきてる」
(『JAPANESE POP』と “牙の行方” の相関性)

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“牙の行方” から、私もいろいろ考えました。
それにしても、「世の中、いろいろチープになっているなぁ」 最近、私が切実に感じることです。
むやみに「お金をかけろ」ということではないですよ。 バブル時代のように、本質が抜け落ちたお金の使い方はもちろんナンセンス。
崇高とまではいかなくても、でも、もう少し高みを目指していこうとする文化を育てなければ、やがてすべてがジリ貧になっていくような気がしてならないんです。
「不景気だから」、そんな言葉によって問題の本質がすり替えられているような気がします。
安藤裕子が牙を剥いたのは、そんな時代の風潮に対してではないかと、私はそう思います。

現状、低いところに居たとしても、それでも高みを目指そうとする心意気を失ってはならない。
「現状を素直に受け入れる」ということも、在り方としては素晴らしい。 でも、「それに満足してはならない」ということです。
今の時代は、「上を目指し、一所懸命」でトントン。 現状に満足なんてしていたら、ゆっくりと落ちていくだけだと思うのです。
私は、今の日本全体が、すでに高みを目指すことをあきらめ、ずるずるとずり落ちていっているような、そんな感覚を拭えないのです。

まあ、なにやら堅苦しく脱線してしまいましたが、
つまりは、「せっかくだから、心からわくわく出来る、いい音楽を聴きたいよね」ってことですよ。

CDジャーナル 2010年9月号

CDジャーナル 2010年9月号から、安藤裕子ねえやんの言葉を抜粋。

CDジャーナル 2010年9月号

「私はあまり変化を求めないし、同じ場所にいられるならずっといたいと思っている平和主義者なんです(笑)。」
(『JAPANESE POP』で複数のアレンジャーを迎えたことについて)

「<Dreams in the dark>には”世界中の夢が叶うならいいよ”という歌詞があるんですけど、私は揶揄して書いてるわけですよ。そんなの絶対無理だと思っているから。でも、本当にそう願ってもいいんじゃないかって思わせてくれるアレンジになっていて驚かされましたね」
(ベニー・シングスの編曲について)

「あえてドーンと重い感じの<アネモネ>という曲をお願いしてみたら、私のコーラスが楽器の一部になっていて。怖い美しさみたいな効果を与えるものになっていたんです。この人は変態だって思いましたね。私にとって変態ってのは、褒め言葉なんですけど(笑)」
(宮川弾氏を評して)

「私、人に”頑張ろうね”って言われても生き残れないの。ドン底まで落ちた時は、自分ととっくみあうことでしか前に進んでこられなかったんです。自分に酔いしれてもムカつくし、ウソをつくのにもたえられない。だからようやく自分に安心できる作品というか、いろいろな気持ちが詰まったアルバムができた気がする。浮かれている時は死ぬほど浮かれたほうが楽しいし、落ち込む時は死ぬほど落ち込んでいて当たり前。そういうさまざまな感情を曲として紡いでいく作業を日々しているのかなと思います」
(『JAPANESE POP』は、”日本に生きる我々の日常の機微を歌ったポップ”である)

「頑張ってください」と、安藤裕子ねえやんに直接わざとらしい言葉をかけたことのある私は苦笑いです(笑)
私のようなただの一ファンからだけでなくとも、ねえやんにとって、とても大切な人から言われたとしても、たぶんそうなんだろうな。
自分に素直に、自分と喧嘩して、いっぱい泣いて、いっぱい笑って、そういう毎日の中でやっと自分ってものを保てる。 自分がほんとの自分になる。 だから、そこに他人の入る余地は無いんだね。 ねえやんの歌はそうして生まれるんだろう。

BARFOUT! Vol. 181

BARFOUT! (バッフアウト!) Vol. 181 での安藤裕子のインタビュー記事。
5枚目のアルバム『JAPANESE POP』 リリース前に、自身の音楽への向き合い方に変化があったことを述べている。 心を救う文化としての音楽の大切さに気付いたのだという。

BARFOUT! (バッフアウト!) Vol. 181 安藤裕子 バレエ

自分は「アルバム人間」なんだと語る安藤裕子。
何か1曲を前に出して表現できるものではないと。

これは、安藤裕子の音楽が、安藤裕子の生活の喜怒哀楽、普段の生活のリズムの中から生まれてくることからきているのではないかと私は思います。 だから、簡単に言えば、「喜怒哀楽」の「喜」の曲だけで、表現したいことのすべては語れないよ、ということなんだと思います。

また、音楽を聴く人の気持ちがあまりよく分からなかったが、でも、最近になって、音楽が提供する心の置き場みたいなものがあることの大切さが分かってきたということです。 何か別の世界に誘ってもらえることで、みんな自分の毎日を乗り越えてるんだと。

「あまり他人の音楽を聴かない」という発言をしていたぐらいの安藤裕子。 極端に言えば、分からないまま、また、分かろうとせずに、ひたすら「創りたい」という衝動だけで音楽の道を突き進んできたのだろうか。

頭でっかちになって、慎重すぎてつまらないA型人間の私なんかからは、「さすがB型人間だなぁ」って思います。 私はデタラメな論理ででも自分を納得させない限り、なかなか先へは進めないタイプなので、羨ましいところです。

「どうして私は走っているんだろ?」その意味を、全力で走り続けて何年か立ってから、ふと立ち止まったときに気付いたということでしょうか。 だとすると、ある意味とても人として純粋なんだなぁと思ってしまいますが、実のところは、ウジウジと考え続けた挙句の結論が、最近になってようやく定まったというところだと私は考えますが。

それにしても、結論が出るよりも先に、まずは飛び込んで、走り出してからというのが素晴らしいんです。
凡人は、あーでもない、こーでもないと考えて、それで十分考えた気になって行動にまで移さないものなんですから。

近年における安藤裕子のバラードの名曲 『歩く』 が生まれるきっかけが語られていたので、資料として以下に抜粋しておきます。

ちょうどツアーに出ている時で、楽しいと苦しいの混在で精神的に追い込まれていて、電話に出たくないから、名前が表示されないようにしてたの。 その時も夜中だったから出ないつもりだったのに、ふと見たら、表示されないはずの名前が出ていて。 その子は夜中に電話をかけてくる子じゃないから、何だろう?と思って出たら、「母ちゃんが死んだ」って泣いてて。 小学校の頃から、わたしはその子のお母さんに、「アンコ」って呼ばれてたんだけど、「ちょっとアンコ、(電話に)出てやって」っておばちゃんに言われたのかな?って。 お通夜は手伝えなかったけど、その子が、「ちょっと母ちゃんに曲作ってよ」って言うから、「じゃあ私は曲を作るよ」ってつくったのがこの曲です。 <夜は走り去る>とはあるけど、人の人生って、やっぱり1歩1歩歩いていくものだと思うから、「歩く」というタイトルにして。 <やがて空は動いて そっと星を降らす 終わる今日を流して 夜は走り去る>の最後の2行を歌う時、清々しくて、前向きに進んでいく気持ちになるの。 今の本当の自分は弱々でダメダメなんだけど、この2行を歌う時は、自分が強くなった気がして、「あ、明日の扉を開けられるな」って、すごく自信に満ちる。

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