童話の世界
「安藤裕子の世界」という言葉から連想して、次に思い浮かべる言葉は、私の場合、「メルヘン(童話)」である。
安藤裕子という人物の一面を語る上で、欠かせないものの一つではないだろうか。
私にとっての初めての安藤裕子のアルバムが『Merry Andrew』だったのだが、そのCDブックレットは童話世界にそのまま入り込んだかのような自作の絵で構成されている。 ねえやん曰く、「ミニピエロ裕子の大冒険」だ。 ねえやんの大好きな「不思議の国のアリス」の安藤裕子版のようである。
また、旧安藤裕子の総決算的アルバムとなった『chronicle.』のブックレットも、額縁の絵の中に入り込むという童話を、自作の絵だけで表現している。
PVでは、けっこう大掛かりな舞台セットで童話の世界が作られていた。 ねえやんはすっかりその世界の住人となっていた。
「さみしがり屋の言葉達」では、ヨーロッパのどこかのお城に住む、恋するお姫様に。
「The Still Steel Down」では、「ガリバーになりたい」という本人の希望で、森を彷徨う巨人に。
また、「TEXAS」のPVでは、ねえやん本人によって描かれた童話の挿絵のような絵が、大きなジグソーパズルの背景となった。
PVクリップ集DVD「the Moon and the Sun.」のブックレットは、安藤裕子ねえやん本人の手による版画の挿絵が入った創作短編童話そのものであった。
童話というものは往々にして、物事の本質や教訓をやわらかい言葉で子供に理解できる形で書かれたものである。 けれども、ねえやんが作る童話は、童話であって、童話ではない。 けっして、子供がすぐに理解できるようなものにはなっていないし、子供への教訓的な内容でもない。 残酷さを内に秘め、苦い人生経験の先に世界の真実を語ろうとするかのような、まさに、大人の童話だ。
それはちょうど、安藤裕子が作る歌詞にそのまま通じるものだ。 言葉一つ一つは難しい言葉を使っているわけではないのに、その意味を真に理解しようとするには少々難解であり、おそらく意図的に言葉が足りなさすぎたりする。
新生安藤裕子になる少し前(2007年ぐらい)から、作る曲の歌詞が比較的シンプルでストレートになった。 それにつれて、最近では、メルヘン世界があまり表に出てこなくなったような気がする。 描かれるイラストも、童話的なものから、現実に根ざしたモチーフや、BOY&GIRLが多用されるようになった。 PVがとくに顕著で、映像はとてもシンプルなものとなり、カメラワークはほぼ固定。 背景もイメージ的にほぼ1色。 大人志向なのだろうが、少々さみしい思いがする。
変革期を迎えた安藤裕子。
今回のライブツアーもこれまでとの違いが強調されているようだ。 それは安藤裕子の進化に違いない。 ファンもそれを望んでいる。
ただ、これからも未熟なままのねえやんも隠さず素直に見せてほしい。 人間はいつまでたっても未熟な部分をもちつづけるもの。
むしろ、その未熟さに共感を覚え、共に歩んでいるような錯覚に安心していたのだから。
ライブでは、いくら泣いたって構わない。 My Room では、怒りにまかせた言葉だって期待している。
そしていずれ、ねえやんが結婚しお母さんになったときには、愛しい我が子のために、温かくて楽しい童話を作り、読み聞かせてあげてほしいと思う。