安藤裕子の出身地は神奈川県横浜市で、青葉区の新興住宅地で育つ。誕生日は1977年5月9日(仮)。三姉妹の三女として生まれる。血液型はB型。父母はともに大阪出身。
生まれた時は、逆子で首をつった状態で、半分チアノーゼが始まっていたという。息を吹き返しても脳に障害が残ることを覚悟するようにと安藤裕子の母親は医者に告げられたという。死を極端に意識し、怖れる性格になったのはこのためではないかと本人は思っているそうだ。
幼少期は、非常に影の薄い子だったようで、幼稚園でかくれんぼをすると最後まで見つけてもらえなく友人たちはそのまま帰宅してしまったという。そのため、自分は透明人間ではないかと本気で疑うほどであった。ひどく臆病な性格と、ひどい小児ぜんそくもちであったり、風邪を引きやすい体の弱い子であったためか、小さい頃から何かのたびに遺書を書く癖があったという。
臆病な性格は変化を怖れることにも繋がり、「変化することは失うこと」と考えていた。そのため、なにかにチャレンジする意欲も薄かった。
安藤裕子が小学生の頃に両親は離婚し、母親と祖母、姉達とともに住むことになる。安藤裕子は離婚したことについて母親をひどく責めたという。やがて母親はお店を開いたため、芦屋を引き払ってまできてくれた祖母が育ての母となった。
とても感情的で天真爛漫で明るく強い母親に対して憧憬とある種のコンプレックスを安藤裕子本人は持ち続けていた。だから大好きな母親の悲しむ姿を見たときは、感情を抑え、溜め込み、出来るだけ人と関わらず涙を流さない冷静な人間でいようと努めたという。偏屈で冷徹なユウコちゃんのはじまりである。
少女時代の安藤裕子は、寂しさを紛らわすかのように、家では独りもの作り遊びをしたり、絵を描いてばかりいた。そうして出来上がったものを母親に褒めてもらうことが最大の喜びであり、忙しい母親と幼い安藤裕子のもっとも大切なコミュニケーションとなっていた。褒められる事は自身の存在確認になっていた。
これには、現在の安藤裕子が出来上がる2つの原点がある。ひとつには、現在の音楽制作やアートワーク制作に繋がる「ものづくり」という点で、もうひとつは、ものづくりを通して「評価される」(自分の存在価値を見出す)という世界の喜びを知ったことである。
安藤裕子は、2008年の札幌でのアコースティックライブ中に過去の自分を振り返り、涙ながらに語っている。
「良くもなく悪くもなく、宙ぶらりん。目立つほど何か悪いわけでもないし、目立つほど何か良いわけでもない」
このまま目立たぬように生きることを気楽に思うのと同時に、これではダメだとする自身の核の部分がせめぎ合っていた。
ものづくりの好奇心で高校生の頃から映画制作の世界に興味をもつようになっていた。仲間とともに自主制作映画もつくった。大学生になって映画制作会社に脚本を書いて持ち込むこともあった。しかし、相手にされることもなく、やがて頭打ちを感じ、煮詰まっていたところ、父親の友人でテレビ制作会社の経営者がおり、相談にのってもらうことが出来た。その人の勧めでは、いきなり制作の側ではなく、学生のうちはまずは出る側で現場を知ることから始めるとよいのではないかということだった。
こうして安藤裕子は、タニプロモーションという芸能事務所に所属し、タレント活動を始めることになる。(当時のタニプロモーションには菅野美穂も在籍しており、バーター的な扱いで共演もある)
いくつかの映画やドラマに女優またはエキストラとして出演したり、台湾でSunday Girlsなる大人気アイドルグループの一員になる寸前のところで、仮の病気を理由に降りるなんてこともあった。
大学3年生のときに、役者の舞台オーディションの課題の一つとして歌を一曲歌わなければならなかった。安藤裕子は、これまで自分が人前で歌うことなどほとんど意識してこなかった。自分の低い声も嫌いで(昔、好きだった男の子に電話したら男に間違えられたという苦い経験を持つ)、歌うことも大して上手くはないと思っていたため、困惑する。少ないCDコレクションの中から共感出来たというCharaのベストアルバムに入っていた『Break These Chain』を歌い予選を通過する。そして次に同じくCharaの『Family』を歌う。歌の上手い下手ではなく、歌に対して素直に共感して歌うことを心掛けたという。すると、審査員の一人だったオリコンの創業者、故小池聰行氏に評価され、思いがけず特別賞のような賞を獲得する。小池氏は握手を求めながら「君はそのままでいい、そのままでこっちの内側がキューット揺れるんだよ」と語りかけたという。
子供の頃にモノ作りをしていた頃を思い出す。モノを作り、人に褒めてもらう喜び。このオーディションで得た熱をもう一度肌で感じたい。曲に共感しないと歌えないなら、自分で作るしかない。すぐに曲作りを始める。といっても楽譜が書けるわけではないので鼻歌で作り始めるわけだが、最初はひどくダサい曲しか出来ない。「どうにか心が揺れる曲という物が出来ないものか」ということで、そこでようやく他人の曲というものを意識するようになる。
ここで、安藤裕子の音楽の嗜好遍歴を少々。小学校低学年の頃はドラマ「毎度おさわがせします」の影響からC-C-Bに夢中になった。中学生のときはまったく音楽とは遠ざかっていたが、高校生になる頃は、安藤裕子の姉がサーファー系の人と付き合っていた影響から、GREEN DAY、Offspring、RANCID、BAD RELIGIONなど、洋楽のパンクロック系やハードコアバンド系の音楽に嵌っていたという。
安藤裕子自身が音楽を志すようになった頃に出会ったのが、アルバム『風街ろまん』。細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂らによるロックバンド「はっぴいえんど」であった。安藤裕子一人での曲づくりをしていく時の一つの指南書となったようである。そして、この「はっぴいえんど」がのちに一つの幸運な縁を結ぶことになる。
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