塚田耕司氏との出会い

安藤裕子は大学卒業間近の在学中によく遊びに通っていたクラブで、当時マニピュレーター的なことをしていた塚田耕司氏と出会う。アレンジをしたいという彼から「歌を歌わないのか」と言われ、曲を自分で作ってる事を伝えると、自分の所属音楽制作会社のスタジオに誘われ、そうして一緒に曲づくりを始めることになる。

塚田氏とともに音楽を本格的に志すようになった安藤裕子は、このまま音楽活動を続けていきたいことを芸能事務所にも伝えるが、音楽活動に難を付ける芸能事務所との意見が合わず、結局は芸能事務所と喧嘩別れというかたちで辞めることになり、そのまま大学を卒業するのと同時に風来坊となってしまった。

それでも、塚田氏との楽曲づくりはそれから数年間に及び、塚田氏の事務所の社長も協力的でスタジオも機材も無償で貸してくれた。そのうち、その社長からマネージメントが必要だろうと、現在の事務所の社長である山中聡氏を紹介され、拠り所を得ることになる。

だが、それからの間、自己の力の煮詰まりと、目標の喪失、人の意見を受け入れないわがままとぶつかりを重ね、ついには放り出されてしまう。

芽生え

安藤裕子は再び一人での曲作りを始め、それまでよりも多くの曲をひたすら書いた。この時期に作られた曲は、後にシングルのカップリング曲になったり、ミニアルバム、フルアルバムの中で渋い曲としてのポジションにいるものが多い。これらの曲を書き溜めると、塚田氏をはじめ以前の仲間に聴かせにいき、塚田氏、山中社長らから再び活動のチャンスを与えられることになる。

書き溜めた曲の中の一つで、初めて弱音を吐いてみせた曲だという、元祖「隣人に光が差すとき」がデモ音源としてつくられる。この曲は、音楽活動の上で同期だったある女性が安藤裕子より先にデビューが決まり、そのお披露目ライブに呼ばれたときに感じた情けなさと焦燥感や嫉妬の気持ちを正直に曲にしたものである。塚田氏はこの曲を非常に高く評価し、氏のアレンジもこれまでの流行をなぞるような物から、初めて自分なりのアレンジをし、安藤裕子にとっても塚田氏にとってもひとつの分岐点となった。もちろん、このときの詞の中の女性が誰かということは塚田氏にはすぐにばれたという。

堤幸彦氏との縁

安藤裕子は以前芸能事務所に所属していた時に、ドラマ『池袋ウェストゲートパーク』に女優として出演していた。元々映像作家としての堤幸彦氏のファンだったというが、現場が堤チームとは知らないまま参加していたという。途中から堤チームだと分かり、それから休憩時間に堤幸彦氏といくらか話すようになるが、その際に「好きな音楽とかあるの?」と聞かれ、「はっぴいえんど」の名を挙げると「俺の青春だよ!」と言われ、そこから親しくなる。

『隣人に光が差すとき』のデモが完成してから後のある日、ライヴのリハーサルで都内のスタジオに入ると、偶然、堤幸彦氏が氏自身のバンドのリハーサルを行っていた。ドラマ撮影以来の再会だった。そこで『隣人に光が差すとき』のデモを聴いてもらうと、堤氏が映画『2LDK』の撮影が終わったばかりで、ちょうどエンディング曲を探していて、この曲のイメージがそのままだからということで、映画本編のエンディング曲に採用されることになった。

新たな出会い (安藤雄司氏 ・ 山本隆二氏)

これまで安藤裕子とともに楽曲づくりをしてきた塚田耕司氏が突然、安藤裕子のプロジェクトを降りたいと会議中に言い出したのは、映画「2LDK」が完成し、いよいよインディーズレーベルからCDを発売しようと盛り上がってきたところだった。塚田氏が抜けると安藤裕子の曲を形にする人間がいなくなるので、計画はいったん白紙に戻そうということになる。それを聞いた安藤裕子は激高し、泣き喚き、掴み掛からんばかりの怒声を塚田氏にぶつける。事務所社長からは「俺達はまだやるから、大丈夫だから」と腫れ物に触れるかのように慰められる。塚田氏が降りたくなった理由は、自分たちに関わってくる人間が増えてきて、自分の思惑通りに行かなくなったからではないかと、後に、安藤裕子は推測している。

スタジオ機器

塚田氏が降りたことで、事務所社長からエイベックスのディレクターである安藤雄司氏(以下アンディ)に会うことを勧められる。

アンディは、アレンジャー山本隆二氏(以下もっさん)とともに一度スタジオに入ることを提案し、三人でエイベックス社屋内のスタジオでプリプロダクション(プリプロ)を行う。この際に「空の神様」、「リズム」の2曲をつくり、不安ながらも、お互いの中間点を探しながらこれから一緒にやっていくことを決める。

それからは、探りあいをしながら曲作りに没頭する毎日を送る。安藤裕子を含めた三人の共通項を捜しつつ、その中で化学反応的に出来た楽曲が『サリー』であった。結果、ポップスで人に聴き良い物に仕上がった事で、「このチームでやっていける」と安藤裕子は確信出来たという。

デビュー

2003年ミニアルバム『サリー』でメジャーデビューするが、そのときの記憶があまりないほど、プリプロルームに篭り、レコーディングスタジオに篭り、ひたすら曲作りに没頭する。

ミニアルバム『and do, record.』、ファーストシングル『水色の調べ』、そして念願のファーストフルアルバム『Middle Tempo Magic』を完成させる。このアルバムは、安藤裕子というアーティストを偏った見方をされないようにすることを念頭においてバランスを測って作った。そして出来上がった作品はとても良質なものとなり、安藤裕子本人にとってもかなりの自信作であった。しかし同時に、「優等生すぎた」という不安をも感じたという。たしかに当時の自身が持っていた物は出せたが、決して優等生ではない自分の弱みや短所などを出しそびれたのではないかという気持ちになったという。

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